今回は全然アメリカの犬の話ではないのですが、以前にdog actuallyに似たテーマの記事を書いたことがあったので、このブログに書くことにしました。
そう言えば、このブログはdog actuallyの記事を再掲するというのが当初の目的でしたわね😜
2014年にdog actuallyに書いたのは『犬にも魂があり天国への扉が開かれている?』というタイトルでした。↓これがその時の書き出しの文章。
カトリック教会においては、動物には魂がない〜つまり死によって存在が消滅するので天国に行くこともないという考え方なのですが「フランシスコ教皇はその考えを覆したのか!?」「いや、誤報だった...。」という話でした。
”ニューヨークタイムス紙に「犬も天国に行ける?ローマ教皇フランシスコが天国への門を開いた」という見出しの記事が掲載されました。この記事はその後訂正されて、ローマ教皇はそのような旨の発言はしていなかったことがわかったのですが、オリジナルと訂正記事の両方が主要報道機関によって大きく取り上げられ話題になりました。”
カトリック教会においては、動物には魂がない〜つまり死によって存在が消滅するので天国に行くこともないという考え方なのですが「フランシスコ教皇はその考えを覆したのか!?」「いや、誤報だった...。」という話でした。
ローマ教皇が動物について発言したこと
そして今回書くのは、2022年1月上旬に世界のあちこちで大炎上となったローマ教皇の発言と、そこから考えたいこと。
フランシスコ教皇はバチカンで一般の聴衆と「親と子の関係」についての対話をしていた際に、多くの先進国で出生率の低下が続いていることを受けて「子どもを持たないことを選択し、代わりにペットの動物を飼うことは利己的な行動である」と述べました。
「身体的な理由で子どもを産むことができない場合には養子縁組を考えるべきだ」とも発言して、子どもの支援団体や動物保護団体そして一般の人々からも非難轟々となったわけですね。
どうして子どもの代わりに犬や猫を愛することが利己的なのかと言うと、犬や猫といった動物は神によって人間を愛するよう(または人間の役に立つように)プログラムされており、そのようにプログラムされている者の世話をして愛情を注ぐのは簡単なことだから、だそうです。対して人間の子どもを育てることはもっと複雑で責任を伴うことであると、教皇は述べています。
「非難轟々」の内容には皆さんが想像されるような意見がたくさん詰まっています。また子どもを育てることが複雑で責任を伴うことであるからこそ望まない人に強要するべきではないという批判も多く寄せられました。
カトリックの教えと社会の中の動物の位置
カトリック教会はキリスト教最大の教派で、その最高位の人物がなぜ動物について上記のような発言をするのか。それはカトリックの教えの中での動物の扱い、社会の中で動物が置かれてきた位置、社会と教会の関係性と複雑に絡み合っています。
過去の記事にも書いたように、カトリックの教えでは動物には魂がないということになっています。それだけでなく、19世紀後半くらいまで動物は感情や感覚を持たない車輪や機械と同じものだとされていました。これらは聖書に書かれていることではなくカトリックの教義の一部です。
↓ここからは私が推測したり考えたりしたことなので、全部が歴史的に正しいかどうかは不明です。
カトリックの教義では、意識や感情つまり魂のあるものは愛情と敬意を持って扱わなくてはならない、また魂を持つ者には天国の扉が開かれていることになっています。
動物には魂がないと言い切る理由を考えると、動物にまで天国の扉を開くと自分達の分の天国行きチケットが少なくなるとでも思ったのか?と感じます。
多分、使役動物である馬や犬を人道的に扱うことにコストをかけるよりも、使役動物は痛いとか辛いといった感覚すらないからどのように扱っても構わないと考える方が経済性利便性の上で都合が良かったからではないかと思います。
教会と経済性という組み合わせに違和感があるかもしれませんが、西欧社会における教会の権力は強大であったため、社会的及び経済的な強者とのつながりは強固でした。
世界史の授業で『マルティン・ルターの宗教改革』というのを習いましたよね?あれは聖書の教えよりも教会にとって都合の良い教義を使うことで金儲けに傾倒して腐敗したカトリック教会を内部から改革しようという16世紀に起きた動きでした。16世紀の時点でカトリック教会にはこのような体質が根付いていたことが分かります。
ルターの宗教改革は、彼が当初計画したような改革ではなく、プロテスタントという新しい教派を生むことにつながりました。カトリック教会においては動物についての教義は変わることなくそのまま残っていきました。
そして時代は流れ19世紀、プロテスタントはイギリスに到達し1824年には世界で最初の動物虐待防止協会が設立されました。(イギリスにおけるカトリック教会とその後の分離の流れはこれまた複雑かつ非常に面白いのですが、ここでは関係ないので割愛)
ローマンカトリックのお膝元であるイタリアにもこの「動物虐待を止めよう」という動きがやって来たのですが、1846年から1878年在位のローマ教皇ピウス9世はイタリアに動物虐待防止協会を設立することを阻止するための激しいキャンペーンを主導しました。動物は感覚や感情を持たない魂のない存在であるから虐待などというものは存在しないというわけです。
さらに時は流れ、20世紀後半の1990年には時のローマ教皇ヨハネパウロ2世が「動物にも魂があり、人間は小さき兄弟に愛と連帯を持たなくてはなりません。すべての動物は聖霊の創造によって産まれたもので人間と同じように神の近くにいる存在です。」と発言されています。
ようやく変化が訪れたかと思われたものの、その後、前教皇のベネディクト16世と現教皇によって、動物は再び「人間と違って魂を持たない存在」であるとされています。しかし流石に「感情や感覚のない機械と同じもの」という扱いではなくなっています。
上記の「非難轟々発言」の中でフランシス教皇が言及した「犬や猫は人間を愛するようにプログラムされている」という言葉には、このような歴史が積み重ねられているわけです。
宗教が社会に、社会が動物福祉に及ぼす影響
カトリックの信者の人々にとってバチカンや教皇の言葉は非常に大きな意味を持ちます。カトリックの国の動物についての考え方や扱いにもその影響は色濃く現れています。
世界最初の動物虐待防止協会ができたのがイギリスであったように、動物保護や動物福祉といった考え方はプロテスタントの国が主導してきた傾向が強いです。「動物には感情や感覚がない」と繰り返し説かれて来た社会で動物を保護しようという考えが自然と生まれて来るとは思えないですもんね。
またカトリックにとって重要なのは教会の教義であったのに対して、プロテスタントにとって重要なのは聖書の教えそのものでした。プロテスタントが広まった国では聖書を読むために識字率が上がり、市場経済が発展しやすい下地となりました。これもまた間接的に動物保護や福祉という考えの発生につながっています。経済的な余裕がなくては動物に意識を向けることは難しいでしょうから。
決してカトリック教会を批判しているわけでも、カトリックに悪い感情を持っているわけでもないですよ。プロテスタントも為政者の都合の良いように解釈され利用されてきた面もあるし、キリスト教だけでなく仏教にも権力との結びつきや民衆を抑えるために使われてきた歴史があるのはご存知の通り。多分他の宗教においても大差はないと思います。
多くの日本人にとっての宗教は、ベースに神道と仏教があるけれどその存在を意識するのは初詣や冠婚葬祭といった特別な場面だけでしょう。しかし日常生活に仏教が深く根付いている国では動物に施しを与えることが功徳になるという考え方もあります。タイなどで野良犬が地元の人にごはんをもらって共存しているのはその一例かもしれません。
その一方で仏教の教えが動物を傷つけている場合もあるようです。タイ在住の犬の写真家の方がTwitter(@inu_grapher)に書いていらしたのを読んで知ったことですが、動物に施しを与えて徳を積むために、カゴに入れて売られている小鳥を買って放してやるという習慣があるそうです。小鳥はそのためだけに捕らえられた野鳥で、小さいカゴに入れられて脱水症状で命を落としてしまうこともあるらしい。
その他の宗教についてはほとんど知識がないけれど、特定の動物を不浄とする宗教もいくつかありますよね。何が言いたいかというと、カトリックに限らず宗教は世界中の人の日常生活に大きく影響しているのだから、人間のそばにいる動物の福祉にも影響が深いのは当たり前だということです。
現代人として考えなくてはいけないこと
ところで昨秋、フランスでは2024年からペットショップで犬や猫を販売することが禁止になるという報道がありました。SNSなどで「さすがはヨーロッパ」とか「日本も見習わなくては」というコメントをたくさん目にしてちょっと複雑な気持ちになっていました。
フランスもカトリックの割合が高い国です。そして西欧諸国の中では動物福祉への意識があまり払われていないことはよく知られて来ました。数週間のバカンスに出かけるためにペットを捨てたり、バカンス先に置き去りにして来るという行動が多いことで批判されて来た過去もあります。とは言え、良い方向への変化は大歓迎です。
フランスでは離婚の際にペットをどちらが引き取るかという法的な裁判の際に、ペットを物品としてではなく「感覚や感情を持った生き物」として扱うという法改正も決定しています。同様の法改正はポルトガルやスペインでも進められています。フランスもポルトガルもスペインもカトリックの国ですから、ペットを「感覚や感情を持った生き物」と法律で定義するのは画期的なことです。
スペインは闘牛に代表されるように動物福祉については悪名高い国ではあるのですが、上記のような変化も出て来ています。
なぜこのような変化が起きつつあるのか?それは法律という重大な決定をする際に、日常生活に入り込んだ宗教や習慣よりも科学的な知見が重要であると認識されたからです。犬だけに限らず、動物の認知機能や感覚についての研究は21世紀に入って大きく進歩しています。
科学によって証明されたことが立法にも影響を及ぼした、他国のこの流れを知っておくことは大切です。(2017年から4年間のトランプ政権下のアメリカでは科学によって証明されたことがないがしろにされ続け、それが今も尾を引いていますが😣)
私は宗教を否定するつもりは全くありません。信仰は時に人を助け、精神的なサポートになるものです。また一般の人間が科学論文を読んで考えようと言っているわけでもありません。しかし他の命ある生き物と関わる際には、宗教や因習に捉われるよりも科学的に裏付けのある情報や方法を選ぶよう考えなくてはいけない、そう思います。
ローマ教皇の発言に端を発して、カトリックの国における動物の扱いの歴史や文化について長々と書いてきました。
動物福祉というキーワードからも、世界史、経済、心理学などさまざまな分野の学習にリンクしていくことができます。ここに書いたことがどなたかの興味のスタートになったりすると嬉しいなと思います。
《参考URL》
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