2023/04/20

従来の不妊化手術と性腺温存型不妊化手術を比較

pic by Mohamed_hassan from Pixabay

犬の不妊化手術(避妊去勢)の新しい流れ

犬の不妊化手術は飼い主にとって「どうする?」の連続です。10年ほど前に不妊化手術による健康上の影響についての研究結果が発表されるようになってからは、さらに悩みも増えました。

従来の不妊化手術はオスならば陰嚢を切開して精巣を摘出、メスならば卵巣と子宮を摘出または卵巣のみを摘出します。精巣や卵巣は『性腺』であり、生殖のための精子や卵子を形成する他に性ホルモンを分泌する器官でもあります。性腺を取り除くことで性ホルモンの分泌がなくなることが、手術後の健康に良くも悪くも影響を与えると考えられています。

近年アメリカでは性腺を温存する不妊化手術の方法が人気を集めつつあります。オスの場合は精管切除(俗にいうパイプカット)メスの場合は卵巣を温存して子宮だけを摘出または卵管結紮が主なものです。手術以外では、オスの睾丸に避妊薬を注射またはオス犬に性ホルモンの作用を阻害する物質をマイクロチップのように皮下に埋め込むという化学的去勢と呼ばれる方法もありますが、家庭犬ではごく少数です。

2023年3月アメリカ獣医師会の会誌にクリス・ジンク獣医師のチームによって「犬における精管切除および卵巣温存避妊手術と性腺摘出または未避妊との健康および行動の比較」という論文が発表されました。ジンク獣医師は犬のスポーツ医学を専門としています。従来の不妊化手術である性腺摘出の方法では前十字靭帯断裂や股関節形成不全など整形外科的な疾患との関連が取り上げられているので、スポーツ医学専門医による調査は「なるほど」という感じです。


不妊化手術の有無と手術法の比較調査

ジンク獣医師の論文は、性腺を温存する不妊化手術を受けた犬と性腺を摘出する不妊化手術を受けた犬そして不妊化手術を全く受けていない犬の健康状態と行動を比較調査したものです。

(これ以降、性腺を温存する手術法は「精管切除」「卵巣温存」性腺を摘出する手術法は「従来の手術」と表記していきます。どちらの方法であれ手術をしていない場合は「未避妊」と表記します。)

調査は犬の飼い主へのアンケートという形で行われました。参加者はニューヨーク市のGood Dogという団体の会員向けニュースレターまたはFacebookを通じて募集されました。この団体は責任ある犬の繁殖を推進することをテーマに、優良ブリーダーまたは保護団体と飼い主の橋渡しを行なっています。

アンケートの内容は、犬の名前、体重、現在生きているかどうか、年齢(亡くなっている場合は死亡時の年齢)、不妊化の状態、不妊化している場合は手術の種類(精管切除か卵巣温存か従来の手術か)、その手術法を選んだ理由、手術時の年齢未避妊の場合はその理由、などがありました。

健康状態についての質問では、関節など整形外科的な疾患、ガン、甲状腺など内分泌疾患、肥満、生殖疾患、その他の疾患の診断の有無、診断時の年齢。行動についての質問では、攻撃性、不安、恐怖、その他問題行動(マーキング、マウントなど)について設定されていました。

集められた回答をロジスティック回帰分析、生存分析、記述統計を用いて、不妊化の状態と結果との関係を評価しました。
 ・ロジスティック回帰分析 いくつかの要因から(この場合は不妊化状態や年齢など)
  「ある事象の発生率」を分析する方法
 ・生存分析 ひとつの事象が発生するまでの予想される期間を分析する方法
 ・記述統計 収集したデータの平均や分散などを計算して分布を明らかにし、
  データの示す傾向や性質を把握する方法

アンケート調査の回答

集められた有効な回答は6,018件で、回答者の70%はアメリカ、16%がカナダからでした。

犬の平均年齢は8.85歳(1歳から21歳)

体重分布
4.5kg未満    3%
4.5〜 9.1kg   11% 
9.2〜18.2kg  21%
18.3〜27.3kg   33%
27.4〜36.4kg.  23%
36.5〜45.5kg  6%
45.5kg以上     4%

オス犬の生殖状態
未避妊     1,056
従来の去勢手術 1,672
精管切除      58

メス犬の生殖状態
未避妊        792
従来の不妊化  2,281
卵巣温存       159

・整形外科的問題(前十字靭帯損傷、股関節形成不全など)

全体モデルは統計的に有意(=相関関係が統計的に偶然とは考えにくい)でした。
関節や靭帯など整形外科的な疾患は性腺摘出(従来手術)と共に増加していました。
整形外科的疾患と診断された犬の数は
未避妊のオスでは72頭(7%)、未避妊メスでは26頭(3%)
従来の手術のオスでは353頭(21%)、従来手術のメスでは442頭(19%)
卵巣温存メスでは12頭(8%)、精管切除オスについては記載なし
年齢が高くサイズが大きくなるほど整形外科的疾患が増加していました。

・ガン(血管肉腫、リンパ腫、肥満細胞腫、骨肉腫、他すべての悪性新生物)

全体モデルは統計的に有意でした。
何らかのガンと診断されたことのある犬は従来の手術のオスでは464頭(28%)、従来の手術のメスでは582頭(26%)。
精管切除オスと卵巣温存メスの合計では23頭(10.6%)、未避妊のオスとメスの合計では205頭(11%)でした。

ガンと診断された年齢では、不妊化手術前(従来の手術)に診断された犬は98頭(2.5%)で診断時平均年齢は7.63歳。手術後にガンと診断された犬は942頭(23.8%)で診断時平均年齢は10.15歳。
精管切除と卵巣温存では手術前にガンと診断された犬はおらず、ガン診断時平均年齢は9.18歳。
未避妊の犬ではガン診断時平均年齢は9.3歳。
従来の手術の犬は全体的にガンと診断された数が多かったが、診断の年齢が遅い。性腺が存在した期間が長いほど、ガン診断の年齢が遅いという相関も見られた。
メス犬の乳腺腫瘍では、未避妊26頭(3.2%)従来の手術を受けた犬のうち手術前の診断が39頭(1.7%)手術後の診断が42頭(1.8%)卵巣温存では4頭(2.5%)でした。

・肥満

全体モデルは統計的に有意でした。
未避妊オスでは2頭(0.19%)未避妊メスでは0頭
従来手術のオスでは91頭(5%)従来手術のメスでは100頭(4%)
卵巣温存のメスでは1頭(0.6%)精管切除オスについては記載なし
ガンと違って、性腺が存在した期間の長さや年齢と肥満との間に関連は見られませんでした。

・内分泌疾患(甲状腺疾患、糖尿病など)

全体モデルは統計的に有意でした。
未避妊オスでは45頭(4%)未避妊メスでは12頭(1.5%)
従来手術のオスでは107頭(6%)従来手術のメスでは163頭(7%)
精管切除および卵巣温存については記載なし
性腺が存在する期間の長さは内分泌疾患の有無と関連が見られませんでした。

・生殖器疾患(子宮蓄膿症、前立腺炎など)

全体モデルは統計的に有意でした。
未避妊オスでは71頭(7%)、未避妊メスでは33頭(4%)
従来手術のオスでは6頭(0.4%)、従来手術のメスでは60頭(3%)
卵巣温存のメスでは11頭(7%)精管切除オスについては記載なし
性腺が存在する期間が長いほど生殖器疾患の確率が高くなっていました。

・その他の健康問題(心臓、腎臓、歯、目など)

全体モデルは統計的に有意でした。
その他の疾患の診断を受けた犬は
未避妊オスでは139頭(13%)、未避妊メスでは67頭(8%)
従来手術のオスでは288頭(17%)、従来手術のメスでは586頭(26%)
精管切除および卵巣温存については記載なし
性腺が存在する期間が長いほど、その他の健康問題を持つ確率が低下していました。
その他健康問題は年齢と体のサイズが大きくなるにつれて増加していました。

・問題行動(攻撃性、不安や恐怖に関連するもの)

全体モデルは統計的に有意でした。
未避妊オスでは373頭(35%)、未避妊メスでは221頭(28%)
従来手術のオスでは881頭(53%)、従来手術のメスでは939頭(41%)
卵巣温存メスでは69頭(43%)精管切除オスについては記載なし
性腺が存在する期間と体のサイズが大きくなるにつれて問題行動の発生は低下していました。

マーキングやマウントについては
未避妊オス133頭(13%)、未避妊メス32頭(4%)
従来の手術のオス187頭(11%)、従来の手術のメス133頭(6%)
精管切除のオス12頭(21%)、卵巣温存のメス16頭(10%)
不妊化の状態に関わらず、オス犬で有意に高くなっていました。
性腺が存在する期間が長いほど、マーキングやマウントは低下しました。

・生存期間の分析

生存期間、いわゆる寿命を犬の不妊化の状態によって分析したところ、未避妊の場合はオスメス共に従来の手術、精管切除、卵巣温存に比べて寿命が短いことがわかりました。

不妊化手術は性腺温存法に切り替えるべきなのか?


6,000頭以上の犬の飼い主から集められた回答の分析結果を簡単にまとめますと
  • 整形外科的疾患ー未避妊または卵巣温存では少ない
  • ガンー従来の手術法では未避妊よりも診断数が多い
  • 肥満ー従来の手術法と卵巣温存では未避妊よりも多い
  • 生殖器疾患ー従来の手術法でオスメス共に少ない
  • 問題行動ー未避妊では手術済みよりも少ない
これらは過去に発表された研究とほぼ一致しています。

この調査は、性腺を温存する精管切除や卵巣温存子宮摘出の不妊化手術を受けた犬の健康と行動を、未避妊または従来の性腺摘出の手術法を受けた犬と比較した初めてのものです。
分析結果からは精管切除や卵巣温存の方法は従来の手術よりも健康状態や行動面でより良い結果が得られる可能性が示されました。

では不妊化手術の方法は性腺温存方法に切り替えていくべきなのでしょうか?これについては研究者自身が「さらなる研究が必要である」と述べています。

この調査のデータは飼い主の記憶から得たもので、正確でなかったりバイアスがかかっている可能性という制限があります。さらに精管切除と卵巣温存のサンプル数が圧倒的に少ないことから、他と比較してグループ間の差を検出する際の正確性が低下した可能性もあります。

論文の中でも紹介されているアメリカ動物繁殖学者協会による性腺温存不妊化手術への見解は非常に参考になりますので、以下に要約します。

「卵巣温存子宮摘出術、卵管結紮、精管切除、化学的去勢などの性腺温存不妊化手術と、性腺を摘出する従来の不妊か手術との比較についてのアメリカ動物繁殖学者協会および動物繁殖学会は以下のように考えています。手術をするか否か、どの方法を取るか、実施する年齢はケースバイースであり、犬種、性別、健康状態、手術の目的、家庭環境、気質を考慮して飼い主と獣医師の間で決定されるべきです 。 

現時点でのエビデンスは決定的なものではないので、ガンの発生率や寿命について性腺がもたらすリスクとメリットのメカニズムが明確に理解されるまでは、不妊化手術の種類についての推奨は慎重にするべきです。

性腺温存不妊化手術 にもリスクがあります。卵巣温存法では子宮と子宮頸管を完全に切除します。子宮が一部でも残っていると性ホルモンにさらされ続けるため子宮膿腫などが発生するリスクがあります。子宮を全摘した後の膣壁は子宮頸部があった時のような強度は失われます。しかし卵巣が残っているためヒートは訪れ、未去勢のオス犬は惹きつけられます。強度が失われた膣壁で誤って交尾した場合、膣壁の剥離や腹膜炎によって生命を脅かす可能性があります。ヒートが訪れるものの子宮がないため血性分泌物が出ることがなく、飼い主がヒートに気づきにくくなるという点も大きなリスクです。卵巣温存に対応しているクリニックや病院が少ないことから、上記のようなアクシデントへの適切な対応が遅れる可能性もあります。

 また卵巣温存で不妊化手術をした犬が、後に卵巣に何らかの疾患を持った場合、卵巣を持ち上げている子宮が存在しないため卵巣の病変を取り除く外科処置が困難になる可能性があります。

オス犬の精管切除は受胎は防止しますが、テストステロンの産生や交尾能力には影響を与えません。また前立腺や精巣の病気の可能性は未避妊の場合と変わりません。」

 

精管切除も卵巣温存も、生殖能力は無くなるものの発情期の行動などは未避妊の場合と同じなので、飼い主は注意が必要です。特にメス犬の場合は上記のような理由で、ヒート中の行動には細心の注意で臨まなくてはなりません。

性腺が存在した期間の長さが将来の健康や行動に影響するのであれば、従来の性腺摘出の手術法を犬が完全に成犬になるまで遅らせることでリスク回避になる可能性もあります。

この調査はアメリカとカナダの飼い主がメインになっているため、犬の多くが大型犬であり、不妊化手術後の影響を受けやすいことも考慮に入れておく必要があります。過去の研究では、ほとんどの小型犬は不妊化手術後の整形外科的疾患やガンの発病に影響がありません。

論文著者や動物繁殖学者協会が 「ケースバイケースで獣医師とよく相談して」と書かれている通り、全ての犬にベストな唯一の方法というのは無いのです。

2020年にカリフォルニア大学デイビス校が発表した35犬種の不妊化手術ガイドラインのことを書いた記事を貼っておきます。

UCデイビス校獣医学部による35犬種の避妊去勢手術ガイドライン
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン2 犬種別A~B
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン3 犬種別C~E
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン4 犬種別G~M
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン5 犬種別P~Y
UCデイビス校獣医学部によるミックス犬体重別避妊去勢手術ガイドライン



そして忘れてはいけない犬の不妊化の社会的側面 

ここで紹介した調査研究は、それぞれの犬に最も適した不妊化手術の方法を決めるためのデータとして重要なものです。論文著者は性腺温存の不妊化手術を推奨しているわけではなく、この調査によって得られたエビデンスは、アメリカ獣医師会が2021年に発表した声明を支持するものだとしています。

アメリカ獣医師会の声明とは上記でリンクを貼ったカリフォルニア大学デイビス校の研究の直後に発表されたもので、「同会は獣医師が個々の患者について不妊化手術の潜在的リスクと利益を十分な情報によって全て考慮した上で、ケースバイケースの専門的判断を奨励します」としています。

UCデイビス校の研究はアメリカ獣医師会の中でも物議をかもし、少なからず批判もあるようです。しかし性腺摘出という従来の方法であっても、手術の時期を考慮することで健康や行動上のリスクを回避できる可能性は今回の調査でも示されました。ひとつの研究結果だけでなく、多くの研究機関や研究者によって違う角度から調査や研究された結果が重要であることがよくわかります。

繰り返しになりますが、全ての犬にとって理想的な不妊化手術の方法というものは無く、さまざまな固有の要因を飼い主と獣医師がひとつひとつチェックしながら最適解を探すしかないのです。研究結果はそのための有効なツールのひとつです。


そしてもうひとつ。

不妊化手術による健康への影響が取り上げられるたびに繰り返している「犬や猫の不妊化は医療上の問題の他に社会全体の問題でもある」という面も多くの人に心に留めておいて欲しいと思います。

下のリンクはUCデイビス校のガイドラインの後に当ブログに書いたものです。

犬や猫の避妊去勢は社会の問題でもある

(当時は避妊去勢という言葉を使っていたのですが、日本では不妊手術という言葉の方が一般的になっている流れを感じて、最近は不妊化手術という言葉を使っています。不妊手術ではなく「不妊化」にしているのは私のこだわりです。)

不妊化手術の影響についての話題が上がると、毎回ほぼ必ず「保護団体から言われて何も考えず手術してしまった」「保護犬も健康上の影響を考えるべき」という声が聞こえてきます。

手術の時期を遅らせているうちに殺処分になったり、手術を待つ間コンクリートの犬舎暮らしになることを考えると、たとえ将来の病気のリスクがあるとしても早く家庭に迎えられる方が動物福祉の上で望ましいと言えます。

精管切除や卵巣温存を採用した後の管理リスクなどを考慮すると、動物保護団体やアニマルシェルターの動物には向かないこともお分かりいただけると思います。

長くなりましたが、何らかの参考にしていただければ幸いです。



《参考URL》
Vasectomy and ovary-sparing spay in dogs: comparison of health and behavior outcomes with gonadectomized and sexually intact dogs
https://doi.org/10.2460/javma.22.08.0382

American College of Theriogenologists’ position statement on gonad-sparing sterilization procedures