犬の不妊化手術は飼い主にとって「どうする?」の連続です。10年ほど前に不妊化手術による健康上の影響についての研究結果が発表されるようになってからは、さらに悩みも増えました。
従来の不妊化手術はオスならば陰嚢を切開して精巣を摘出、メスならば卵巣と子宮を摘出または卵巣のみを摘出します。精巣や卵巣は『性腺』であり、生殖のための精子や卵子を形成する他に性ホルモンを分泌する器官でもあります。性腺を取り除くことで性ホルモンの分泌がなくなることが、手術後の健康に良くも悪くも影響を与えると考えられています。
近年アメリカでは性腺を温存する不妊化手術の方法が人気を集めつつあります。オスの場合は精管切除(俗にいうパイプカット)メスの場合は卵巣を温存して子宮だけを摘出または卵管結紮が主なものです。手術以外では、オスの睾丸に避妊薬を注射またはオス犬に性ホルモンの作用を阻害する物質をマイクロチップのように皮下に埋め込むという化学的去勢と呼ばれる方法もありますが、家庭犬ではごく少数です。
2023年3月アメリカ獣医師会の会誌にクリス・ジンク獣医師のチームによって「犬における精管切除および卵巣温存避妊手術と性腺摘出または未避妊との健康および行動の比較」という論文が発表されました。ジンク獣医師は犬のスポーツ医学を専門としています。従来の不妊化手術である性腺摘出の方法では前十字靭帯断裂や股関節形成不全など整形外科的な疾患との関連が取り上げられているので、スポーツ医学専門医による調査は「なるほど」という感じです。
不妊化手術の有無と手術法の比較調査
ジンク獣医師の論文は、性腺を温存する不妊化手術を受けた犬と性腺を摘出する不妊化手術を受けた犬そして不妊化手術を全く受けていない犬の健康状態と行動を比較調査したものです。
(これ以降、性腺を温存する手術法は「精管切除」「卵巣温存」性腺を摘出する手術法は「従来の手術」と表記していきます。どちらの方法であれ手術をしていない場合は「未避妊」と表記します。)
アンケート調査の回答
未避妊 1,056
・整形外科的問題(前十字靭帯損傷、股関節形成不全など)
・ガン(血管肉腫、リンパ腫、肥満細胞腫、骨肉腫、他すべての悪性新生物)
・肥満
・内分泌疾患(甲状腺疾患、糖尿病など)
・生殖器疾患(子宮蓄膿症、前立腺炎など)
・その他の健康問題(心臓、腎臓、歯、目など)
・問題行動(攻撃性、不安や恐怖に関連するもの)
・生存期間の分析
不妊化手術は性腺温存法に切り替えるべきなのか?
- 整形外科的疾患ー未避妊または卵巣温存では少ない
- ガンー従来の手術法では未避妊よりも診断数が多い
- 肥満ー従来の手術法と卵巣温存では未避妊よりも多い
- 生殖器疾患ー従来の手術法でオスメス共に少ない
- 問題行動ー未避妊では手術済みよりも少ない
「卵巣温存子宮摘出術、卵管結紮、精管切除、化学的去勢などの性腺温存不妊化手術と、性腺を摘出する従来の不妊か手術との比較についてのアメリカ動物繁殖学者協会および動物繁殖学会は以下のように考えています。手術をするか否か、どの方法を取るか、実施する年齢はケースバイースであり、犬種、性別、健康状態、手術の目的、家庭環境、気質を考慮して飼い主と獣医師の間で決定されるべきです 。
現時点でのエビデンスは決定的なものではないので、ガンの発生率や寿命について性腺がもたらすリスクとメリットのメカニズムが明確に理解されるまでは、不妊化手術の種類についての推奨は慎重にするべきです。
性腺温存不妊化手術 にもリスクがあります。卵巣温存法では子宮と子宮頸管を完全に切除します。子宮が一部でも残っていると性ホルモンにさらされ続けるため子宮膿腫などが発生するリスクがあります。子宮を全摘した後の膣壁は子宮頸部があった時のような強度は失われます。しかし卵巣が残っているためヒートは訪れ、未去勢のオス犬は惹きつけられます。強度が失われた膣壁で誤って交尾した場合、膣壁の剥離や腹膜炎によって生命を脅かす可能性があります。ヒートが訪れるものの子宮がないため血性分泌物が出ることがなく、飼い主がヒートに気づきにくくなるという点も大きなリスクです。卵巣温存に対応しているクリニックや病院が少ないことから、上記のようなアクシデントへの適切な対応が遅れる可能性もあります。
また卵巣温存で不妊化手術をした犬が、後に卵巣に何らかの疾患を持った場合、卵巣を持ち上げている子宮が存在しないため卵巣の病変を取り除く外科処置が困難になる可能性があります。
オス犬の精管切除は受胎は防止しますが、テストステロンの産生や交尾能力には影響を与えません。また前立腺や精巣の病気の可能性は未避妊の場合と変わりません。」
精管切除も卵巣温存も、生殖能力は無くなるものの発情期の行動などは未避妊の場合と同じなので、飼い主は注意が必要です。特にメス犬の場合は上記のような理由で、ヒート中の行動には細心の注意で臨まなくてはなりません。
性腺が存在した期間の長さが将来の健康や行動に影響するのであれば、従来の性腺摘出の手術法を犬が完全に成犬になるまで遅らせることでリスク回避になる可能性もあります。
この調査はアメリカとカナダの飼い主がメインになっているため、犬の多くが大型犬であり、不妊化手術後の影響を受けやすいことも考慮に入れておく必要があります。過去の研究では、ほとんどの小型犬は不妊化手術後の整形外科的疾患やガンの発病に影響がありません。
論文著者や動物繁殖学者協会が 「ケースバイケースで獣医師とよく相談して」と書かれている通り、全ての犬にベストな唯一の方法というのは無いのです。
2020年にカリフォルニア大学デイビス校が発表した35犬種の不妊化手術ガイドラインのことを書いた記事を貼っておきます。
UCデイビス校獣医学部による35犬種の避妊去勢手術ガイドライン
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン2 犬種別A~B
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン3 犬種別C~E
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン4 犬種別G~M
35犬種の避妊去勢手術ガイドライン5 犬種別P~Y
UCデイビス校獣医学部によるミックス犬体重別避妊去勢手術ガイドライン
そして忘れてはいけない犬の不妊化の社会的側面
アメリカ獣医師会の声明とは上記でリンクを貼ったカリフォルニア大学デイビス校の研究の直後に発表されたもので、「同会は獣医師が個々の患者について不妊化手術の潜在的リスクと利益を十分な情報によって全て考慮した上で、ケースバイケースの専門的判断を奨励します」としています。
UCデイビス校の研究はアメリカ獣医師会の中でも物議をかもし、少なからず批判もあるようです。しかし性腺摘出という従来の方法であっても、手術の時期を考慮することで健康や行動上のリスクを回避できる可能性は今回の調査でも示されました。ひとつの研究結果だけでなく、多くの研究機関や研究者によって違う角度から調査や研究された結果が重要であることがよくわかります。
繰り返しになりますが、全ての犬にとって理想的な不妊化手術の方法というものは無く、さまざまな固有の要因を飼い主と獣医師がひとつひとつチェックしながら最適解を探すしかないのです。研究結果はそのための有効なツールのひとつです。
そしてもうひとつ。
不妊化手術による健康への影響が取り上げられるたびに繰り返している「犬や猫の不妊化は医療上の問題の他に社会全体の問題でもある」という面も多くの人に心に留めておいて欲しいと思います。
不妊化手術の影響についての話題が上がると、毎回ほぼ必ず「保護団体から言われて何も考えず手術してしまった」「保護犬も健康上の影響を考えるべき」という声が聞こえてきます。
手術の時期を遅らせているうちに殺処分になったり、手術を待つ間コンクリートの犬舎暮らしになることを考えると、たとえ将来の病気のリスクがあるとしても早く家庭に迎えられる方が動物福祉の上で望ましいと言えます。
精管切除や卵巣温存を採用した後の管理リスクなどを考慮すると、動物保護団体やアニマルシェルターの動物には向かないこともお分かりいただけると思います。
長くなりましたが、何らかの参考にしていただければ幸いです。
https://doi.org/10.2460/javma.22.08.0382