2019/10/25

犬の避妊去勢 検討のポイントは「するか」「しないか」ではない

Image by Manfred Burdich from Pixabay 


ホロウィッツ博士が書いたNYTのコラム

少し前にTwitterに書いたのですが、アレクサンドラ・ホロウィッツ博士(『犬から見た世界』『犬であるということ』著者、コロンビア大学バーナード・カレッジ犬認知研究所主宰)がニューヨーク・タイムズ紙に犬の避妊去勢についてのコラムを発表しました。

その内容を簡単に要約すると


  • 現在アメリカでは、飼い犬に避妊去勢処置を施すことは『責任ある飼い主』として当然のことと受け止められている。このことは大規模保護団体や獣医師たちにも支持されている。
  • 1970年代にピークに達した犬猫の殺処分数は、その解決策として作られた安価な避妊去勢専門クリニックの普及と避妊去勢処置を勧める自治体の方針から減少を更新し、過剰頭数の問題は一見議論の余地のない成功を収めたように見える。(殺処分数は2000万匹/年から約10分の1に減少)
  • しかし2010年代に入り、早期に避妊去勢処置をしたゴールデンレトリーバーをはじめとする大型犬の関節疾患が多発、一部の大型犬でガンのリスクが倍増という、避妊去勢と疾患の関連を示す研究が発表された。
  • 避妊去勢処置は性腺を摘出することで、犬の体内でエストロゲン、テストステロンなどの性ホルモンが分泌されなくなる為、生殖以外にも成長や全身機能に影響を及ぼすと思われる。
  • 犬の避妊去勢の推進は人間の都合だけを優先しているのではないか。ヨーロッパでは避妊去勢は一般的ではないが、ノルウェーやスウェーデンで野良犬が問題になっていることはない。
  • 避妊去勢の方法は、従来の性腺および生殖器摘出手術だけでなく、オス犬の睾丸への避妊薬注射、オス犬の精管切除、メス犬の卵管結紮など、ホルモン分泌の機能を残したまま避妊効果をあげるものもある。
  • 避妊去勢が広範囲に行われることで、犬の遺伝子プールから健全な犬が除外されてしまい、犬種の健全性が失われてしまう。そしてこのままではミックス犬、雑種犬と呼ばれる犬は絶滅してしまう。
  • 私たちは避妊去勢された犬を迎えることで、犬に対する責任を免除されたわけではない。犬の複雑なニーズや身体機能を、犬の行動やコミュニケーションサインを学習し理解しなくてはならない。修正すべきは犬ではなくて、我々の方だ。
ホロウィッツ博士の著作は犬という生き物を理解する上で大きな助けになるものです。犬認知研究所の研究も、興味深く重要なものです。
でもこのニューヨーク・タイムズに発表されたコラムは、間違っているわけではないけれど「博士、そこはちょっと詰めが甘かったり、理屈に無理があるのではないでしょうか」という部分があります。

しかし著名な博士が大メディアに発表したコラムですから、その影響は大きく知識層や動物保護団体の間ではちょっとした議論となっています。
これに応えるように、ワシントン・ポスト紙にも犬の避妊去勢についての記事が発表されました。

ワシントン・ポスト紙の記事の要約

WP紙の記事も事実関連についてはNYT紙とほぼ同じことが書かれています。
犬の避妊去勢により殺処分数が大幅に低下したこと、一方で避妊去勢処置と健康問題の関連が指摘されていることなどです。
しかしWP紙の記事は複数の専門家に取材して書かれているため、もう少し落ち着いた論調で現実的なものになっています。

  • 避妊去勢と相関して特定の疾患が起こるリスクは特定の品種と大型犬でより高く、手術をする年齢も発症率を左右する重要なファクターである。小型犬や雑種犬では避妊去勢による疾患リスクの上昇は確認されていない。米国獣医師会や専門家は、個々の犬によって事情が違うため決定はケースバイケースで行われるべきだとしている。
  • 避妊去勢によってリスクの高くなる健康問題が発表された一方で、避妊去勢による健康上のメリットがあることも確かである。乳腺腫瘍や子宮蓄膿症についてはリスク低下が明らかであり、避妊去勢を受けた犬は平均して長生きである。
  • ユタ州で活動する、あるドッグトレーナーは避妊去勢処置をしていない犬の管理についてのアドバイスを提供するFacebookグループを開始し、着実にメンバーを増やしている。このトレーナーも場合によっては、犬の精管切除や卵巣を残して子宮だけを摘出する方法などを推奨している。
ワシントン・ポスト紙の論調は「避妊去勢は一概にするべき!というものでも、絶対にダメ!というものでもなく、それぞれの犬の事情やリスクとメリットを考慮してケースバイケースで考えよう」というものです。
記事の最後の〆は、前述のドッグトレーナーの言葉で「私たちは誰だって、望まれない子犬が産まれてくるのを見たくはありません」としています。


アメリカで犬の避妊去勢を見直そうという声が上がること

前述のように、ホロウィッツ博士のコラムは獣医療関係者からは歓迎寄り、動物保護関係者からは困惑を持って受け止められているようで、議論が起きています。

しかしアメリカでは全州の3分の2で保護犬の譲渡時の避妊去勢を法律で義務付けています。保護犬でなくても飼い犬には基本的に避妊去勢処置を義務付ける自治体や、未処置の犬の登録料が処置済みの場合の4〜5倍に設定されている自治体もあり、飼い犬の約80%は避妊去勢の処置がされているというのが現状です。
つまり議論は起きても「避妊去勢はしない!」と決める飼い主が急増するわけではありません。

今のアメリカで飼い犬の避妊去勢をしていない飼い主は、犬の健康上の問題で免除の申請をしている人、ブリーダーとして登録している人、高い登録料も様々な不便さも乗り越えて信念を持って「しない」選択をした人、そして多分最も多いのは「法律なんか気にしない。時には小遣い稼ぎに子犬も売っちゃうよ〜」という人々です。
アメリカでは素人が犬の自家繁殖をして子犬を売るというのは「普通の人はやらないよね〜」という、逆の意味でハードルの高い行為です。つまり避妊去勢しないで素人繁殖をしてしまうのは、ちょっとヤバい人々。

犬の繁殖は事前に申請して許可証を取り、回数や飼育数に厳密な制限が有り、それを超える場合には許可証が発行されない、許可証の申請料自体も安くはないという規制をしている自治体も多いのです。
犬の避妊去勢をせずに素人繁殖をしてしまう人々を根絶することはできませんが、このような規制があることで、一般のごく普通の家庭で犬を自家繁殖するという選択を食い止める効果があります。

ホロウィッツ博士や彼女のコラムを受けてマーク・ベコフ博士が書いた別のコラムなどでは、北欧では犬の避妊去勢は一般的ではないが、かの地では野良犬は問題になっていないと述べています。
しかし国土の広さも地理的な条件も人口も人種や文化の多様性も、北欧とは全く異なる現在のアメリカでは、犬の避妊去勢を行わないというのはあまりにも無謀です。
(ヨーロッパの野良犬の話はまた場を改めて)
70年代から比べれば8〜9割は少なくなった犬猫の殺処分数が再び上昇カーブを描くことは誰も望まないはずです。

検討するポイントは何?

犬の繁殖を人間の手で制限しなくては殺処分される犬が増えてしまう、しかし従来の手術の方法では健康に問題が起こる可能性がある。
それなら、考えて検討するポイントは『どのように避妊去勢を行うのか』ということです。

ホロウィッツ博士もコラムの中で書いているように、オス犬なら精巣を摘出、雌犬なら子宮と卵巣を摘出する従来の手術とは違う避妊去勢の方法も色々とできるようになっています。
オス犬の睾丸に避妊薬を注射する方法は鎮静剤のみで全身麻酔は不要、処置は1回だけで避妊率は99.6%と言われています。
またオス犬の精管切除、メス犬の卵管結紮は人間の避妊手術と同じ手法です。
メス犬の手術では卵巣は温存して子宮だけを摘出するという方法もあるそうです。
これらの方法は全て、性腺を除去しないので性ホルモンが継続して分泌されるため、健康への影響が少ないと言われます。

※参考記事
Dogs in the U.S ~犬の避妊去勢、いろんな角度から

アメリカでこれらの処置をしてくれる獣医師はまだ多くはないそうですが、増加はしつつあるとのこと。

残念ながら日本語でこれらの情報はほとんど見つけることができませんでした。
(出てきたら自分のブログだったり😅)
メス犬の避妊手術も、日本語での情報は子宮は残して卵巣だけ摘出という反対のものが多くヒットします。

つまり日本でこれらの方法が実用化されるにはまだ少し時間がかかりそうだということです。

日本では犬や猫の避妊去勢について行政が口を出すことはありません。
本来ならそれで良いし、愛犬の避妊去勢をするか否かは飼い主が決めれば良いことだと思います。
しかし大都市以外の地方ではまだまだ外飼い、もっと言えば放し飼いさえも有り、そのような飼われ方の犬が避妊去勢処置を受けている率は限りなく低い。
毎年のように行き場のない子犬が産まれ、野犬になったり、そのまま保健所に連れて行かれたりする例が多く、殺処分が無くならない理由の1つでもあります。
日本にはごく普通の人々が素人繁殖をとてもカジュアルに考えている土壌もあります。

現在の日本において「アメリカの著名な犬の学者が避妊去勢を考え直そうというコラムを発表しました。避妊去勢は犬の健康に影響を及ぼします。」という情報が注釈なしに入り込んでしまうのは危険だと感じます。


アメリカと同じように、日本の社会もまだ犬の避妊去勢を必要としています。
従来の手術と違う方法はまだ日本には普及していないし、認可すらもされていないのかもしれません。
けれど、これら他の方法はすでに存在して実用化もされているということを多くの方に知識として持っていただきたいと思います。
まずは知らないことには変えて行くことができないですから。

さいごに

ホロウィッツ博士は犬の避妊去勢が広範囲に行われることで遺伝子プールが狭くなり、犬種の健全性が損なわれると述べています。確かにそういう一面はあるかもしれない。
でも、それは責任あるブリーダーが管理することでコントロールできる面でもあると思うのです。
それより怖いのは、避妊去勢処置をする飼い主が減り、遺伝病のチェックなどを行わないまま素人繁殖やアクシデントで生まれてくる犬が増えることです。
皆が避妊去勢処置をするようになるとミックスや雑種が絶滅してしまうというのも非現実的です。
現実にはそこまで徹底して避妊去勢が浸透することはまずないでしょう。雑種犬は規制から漏れた部分から繰り返しこの世に送り出される。
博士は避妊去勢された犬は面倒なことが取り除かれていると言うけれど、避妊去勢したからこその面倒さもありますし、ね。

でもホロウィッツ博士やマーク・ベコフ博士が犬への深い深い愛で、従来の避妊去勢の方法を見直そうと呼びかけることは、やはり大きな意味があると思います。

私がこのやたらと長いブログ記事を書いたのは、ホロウィッツ博士のコラムが注釈なしに日本語に訳されて、日本の犬メディアで発信されることを危惧したからです。

繰り返すけれど、アメリカも日本の社会も「犬は訓練次第で衝動をコントロールできるので、健康に影響を及ぼす避妊去勢をするべきではありません」という論理は残念ながら現状では通用しません。

「私の犬はちゃんとできている!」と言う個々の飼い主さんや犬については別の話ですよ。社会全体を見渡した時の話です。
引き取り手がなくて殺処分されている犬はまだたくさんいます。
闇雲に「避妊去勢はしない」ヨーロッパ方式を真似して、犬の生き地獄を作ってしまった保護団体さえあります。

検討すべきは「するか」「しないか」ではない、どのような方法なら犬に負担が少なくて効果的なのか、日本に導入するにはどうすれば良いのか、そこだと思います。



《参考URL》
ニューヨーク・タイムズ紙のホロウィッツ博士のコラム

こちらはワシントン・ポスト紙


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